喜多方美術倶楽部

喜多方には、耶麻郡山都村(現喜多方市山都町)の田代與三久(蘇陽)が中心となり、1918(大正7)年から1926(大正15)年頃に「喜多方美術倶楽部」という美術支援運動が進められました。

参加した16名の会員の多くは喜多方の商人や旧家である町衆達によって支えられ、その目的は、地方における芸術の普及のため、会津に来遊する芸術家をもてなし、画会や展覧会を開き、将来的には倶楽部の財産を作って美術館の建設を目指す、というものでした。
田代がいつから美術愛好家の親睦団体結成を構想していたかは定かではありませんが、1917(大正6)年暮れの小川芋銭の訪問を契機に1918(大正7)年1月7日、大雪の日に「喜多方美術倶楽部」が結成されました。
1926(大正15)年に終わりを告げるまで喜多方地方における芸術文化の普及につとめました。

セピロマ会と佐藤恒三

「セピロマ会」は、喜多方美術倶楽部の志を引き継ぎ、彫刻家・佐藤恒三を中心に喜多方の美術愛好家によって、戦後間もない1946(昭和21)年に発足します。

佐藤恒三(1904-1965)は喜多方美術倶楽部の会員でもあった大和川酒造六代目佐藤彌右衛門の三男として生まれます。
喜多方中学から東京美術学校彫刻科に学び、在学中から文展・帝展への入選を果たしました。ロダンに傾倒していた恒三は卒業後に渡仏を願いますが戦争により 断念します。
その西洋美術への憧れが、ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソ、オーギュスト・ロダン、アンリ・マティスの頭文字を冠とした「セピロマ会」の創 設へと至りました。
個人を尊重する佐藤恒三の考えが現れた個性を伸ばす絵画教室のほか、地域活性化を目的とした活動を通して美術振興に貢献し、窮乏する戦後、若者達に夢と希望を与えました。