喜多方美術倶楽部

喜多方市内に美術館を開設するという活動は、大正7年(1918)の「喜多方美術倶楽部」結成に始まります。同倶楽部は、耶麻郡山都村(現喜多方市山都町)の田代与三久(たしろ よさく)(蘇陽/そよう)を会長とし、喜多方町の素封家を会員として発足しました。

田代与三久は、明治4年(1871)生まれ、明治20年(1887)に福島県尋常中学校第三級(現県立会津高校)修業、東京仏学校(現法政大学)を経て、当時の日下県知事の秘書を明治28年(1895)まで務めました。その後、家業(酒造業)を継ぎ、明治43年(1910)から大正6年(1917)まで村会議員を務めますが、その傍ら経済界の実力者としての頭角を現し、福島農工銀行監査役、福島信用組合連合会理事、第百七銀行取締役となり、昭和の世界恐慌下では同銀行頭取に就任し、県内金融界の指導者として手腕を発揮しました。

蘇陽が美術収集家として知られるようになるのは、明治44年(1911)、小川芋銭(おがわ うせん)が田代邸に滞在し、その折に芋銭の作品を購入したのが始まりとされています。年を追う毎に作家との交流も頻繁となり、買い入れ額も増えていきました。蘇陽はかねてから、美術愛好家の親睦団体を喜多方に結成したいと構想していましたが、親交が深かった森田恒友(もりた つねとも)の存在と、大正6年に小川芋銭が日本美術院同人に推挙されたことが契機となり、大正7年1月7日、大雪の日、喜多方美術倶楽部が結成されたのです。同倶楽部清規には、美術倶楽部の建物を新築する外、会津来遊の美術家を歓迎し、画会・頒布会を催すことが記載されています。美術倶楽部の計画建物は、今で言えば美術館のようなものではないかと推察されます。

その活動に終止符を打ったのは、大正15年(1926)6月で、競売により同倶楽部の財産整理が行われたようです。いずれにしても、喜多方美術倶楽部と来遊作家の交流は、会津の一角に新風をもたらし、高遇な理念と理想を持ったその活動は他に類を見ない出来事であり、この地方の美術普及に直接にも間接にも多大な影響を与えたのでした。                    (出典:喜多方市史、山都町史)

セピロマ会と佐藤恒三

「セピロマ会」は、喜多方美術倶楽部の志を引き継ぎ、彫刻家・佐藤恒三(さとう つねぞう)を中心に喜多方の美術愛好家によって、戦後間もない昭和21年(1946)に発足します。

佐藤恒三(1904-1965)は喜多方美術倶楽部の会員でもあった大和川酒造六代目佐藤彌右衛門(さとう やうえもん)の三男として生まれます。
喜多方中学(現県立喜多方高校)から東京美術学校彫刻科に学び、在学中から文展・帝展への入選を果たしました。ロダンに傾倒していた恒三は卒業後に渡仏を願いますが戦争により断念します。
その西洋美術への憧れが、ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソ、オーギュスト・ロダン、アンリ・マティスの頭文字を冠とした「セピロマ会」の創設へと至りました。
個人を尊重する佐藤恒三の考えが現れた個性を伸ばす絵画教室のほか、地域活性化を目的とした活動を通して美術振興に貢献し、窮乏する戦後、若者達に夢と希望を与えました。(出典:喜多方市史)